当サイトはアフィリエイト広告を利用しています

人口3,000人の町のさらに山奥で起業しようと思います

人口3,000人の小さな町で起業するということ 田舎で起業

人口3,000人の町に住んで1年が経ちました

人口3,000人のこの町に住んで2017年8月で1年が経過しました。

住めば都とはよく言うもので、スーパーが1件(小さい)、コンビニなし、病院は1時間先という場所でも今のところ「絶対無理」というほどの絶望感に苛まれた経験もなく1年が過ぎました。

今日は私達の現在の仕事、そしてこれからの構想についてお話したいと思います。

元々は関東で働く普通のサラリーマンでした

元々はサラリーマンでした
私達夫婦は元々神奈川県で勤め人をしていました。
夫はシステムエンジニアで、私は看護師
毎日、満員電車に揺られての通勤。
夫は深夜までの仕事が多く、帰宅は終電コースという日々。

少しでも緑の多い環境を求めて、神奈川の郊外にアパートを借りていました。
便利な町から離れているとはいえ、毎月9万円の家賃(+駐車場代)を支払う生活。

当時は共働きで子供もいなかったので、月の収入(手取り)は二人で50~60万円くらい。
これくらいの収入であれば、家賃9万円は普通かなと思っていました。

田舎暮らしをしたいね~なんて言いながら、このままずっとここでサラリーマンと看護師という仕事で安定した収入を得て暮らしを続けていくんだろうと思っていました。

そう、「夢は夢のままでいい」とどこかで諦めていたというか、安定した生活を捨てるなんて無理だと思っていたんです。

人生の転機は突然でした

人生の転機は突然でした
しかし、2011年3月。
東北を震源とした大震災が起こりましたね。

あれをきっかけに夫の頭の中では急速に「田舎暮らしの現実化」に向かったようです。
当時、高層ビルの一角にいた夫は、死を覚悟するほどの揺れに見舞われたそうです。
震源地から離れた神奈川県にいながら、そんなこと言うな!と思うかもしれません。

いずれにしても、私達には経験のないほどの揺れだったんです。
その後、全ての電車はストップ。
夫は電車で1時間の道のりを徒歩で帰宅しました。
コンビニには物がなく、水もガソリンもお米などの保存品もスーパーからあっという間に消えました。

テレビでは連日、ACジャパンのCMばかりが流され、「まほうのことばでたのしいなかまがポポポポ~ン」が頭にこびりつく日々。
あとは物々しいニュースのオンパレード。

メルドダウンが起こると東日本全体が・・・という噂を耳にしながら、私達夫婦自体は今まで通り、朝から仕事で終電で帰る日々。
これが夫は「異常だ」と感じたようです。

私は、「こんなもんかな」という気持ちでしたが・・・。
そして、2011年5月。
何の相談もなく、夫は辞職の意を上司に伝え、私は事後報告に慌てふためくわけです。

確かに「田舎暮らししたいね」と言ってたし、夫が終電コースなのも不満だった。
でも、一言も相談なしかい!

不信感がゼロだったと言ったらウソになります。
この人とこの先一緒にいて、振り回されるのではないかと不安に思ったこともあります。

それでも私の中には「看護師の資格があるから、いざとなったらなんとかなるだろう」という思いが離婚を食い止め、2011年10月に、とうとう長野の地へと引っ越しが決まりました。

2011年10月長野での生活スタート

長野での生活スタート
ちなみに長野は観光でよく遊びに来ていたという以外、何のコネも思い入れもありません。
関東から一番近い田舎と考えた時に「長野」だったというだけでした。

ここで、私達はネットビジネスに参入します。
脱サラした夫は、ネットショップで小売りをはじめ、私もそれを手伝う形でネット中心のお仕事に携わりました。

毎日毎日、家の中で夫と顔を突き合わせながらパソコンをカチャカチャする日々。
最初の数ヶ月はお金になんてなりません。
貯金を使って商品を海外から購入し、それをネットで販売する日々が続きました。

正直、怖かったです。
やっと軌道に乗ったかなというのは初めてから1年以上過ぎていました。

いつ尽きるとも分からないお金。
とにかく必死でした。

長野時代、一番生活が安定していたなぁという月でも収入(手取り)は30万円くらいでしょうか。
サラリーマン時代の半分です。

田舎とはいえ、賃貸で借りてるお家は月に6万円かかります。
ついでに2013年には待望の第一子誕生。
子育ては何かと物入りですし、保育園の月々の費用もバカになりません。

生活のテーマは常に「節約」でした。
なるべくお金をかけず、手作りをしたり、リユース品を使ったり。

そんな生活をしながら、この長野の地で一生過ごすんだろうなぁと思っていた矢先。
保育園関連で問題発生。

第2の移住を決断したのはこどもの環境をめぐってのこと

第2の移住を決断したのはこどもの環境をめぐってのこと
元々、子供の数が多い地域。
地区内に保育園が4つあるのですが、1度入園が決まったらずっと一緒の保育園・・・ではなく、毎年ゼロベースから保育園に入園できるかどうかの審査があります、と連絡がありました。

待機児童対策、保育園入園の平等化などが目的だと思うのですが、一度入ったら安泰と思っていた私達としてはショックでした。

嫌な予感はしていましたが、息子はやっぱり今までとは別の保育園に通うことに決まりました。
役所からの連絡の際、「通園が続けられるだけまだましです。他のお宅では保育園に通えなくなった方もいるんですよ。」と言われました。

私達は「双方の実家が遠く、預け先が他にないというのを考慮し保育園は変わるけど通園できる環境を用意した」という説明でした。

「はい―、分かりました、はい・・・。」
電話を切った後、なんだかむなしくなりました。

私達が思い描いていた「田舎暮らし」ってこんなものだっけ?

同じ保育園に通う他のお母さんとも話しましたが
「ホント、嫌になるよね」とは言うものの、ちゃんと納得できてる様子。

そうか、そんなものか。
そうは思ってみても、やっぱりなんか違う。

夫に相談したところ、
「この市の方針に我慢が出来なくても、いますぐ市の方針を変えることはできない。だったら私達が私達の方針に近い自治体を選んで引っ越せばいいんじゃない?」
とのこと。

まあ、確かに。
ということで、私達はまた新たに引っ越し先を求めて各地の自治体をネット検索し、気になった場所は実際に行ってみる日々となりました。

探し始めてから3ヵ月ほどで、理想的な場所を発見!
実際に行って、何日か泊って、入園についての話を聞いて。

ここだと思いました。
そして、2016年8月。
5年間住んだ長野を後にし、新天地へと引っ越してきました。

こうしてこの町に移り住みました


人口約3,000人の小さな町。
空き家を50万円で買って、リフォームをして住み始めました。
節約のために、壁紙なんかは自分たちでコツコツと張ったりしながら、ここでの生活を楽しんできました。

引っ越しから1年。
私達は変わらずネットビジネスを続けてきました。
よく田舎への移住に「地域おこし協力隊」という制度を利用されるケースがありますが、私達は引っ越すまで知らなかったというのもあり、利用はしていません。

一つ変わったことは、実は私は私で「個人事業主」になったこと。
少しでも家計の足しになればと思って始めた、サイト作成をして広告を貼るという言わば「アフィリエイト」の仕事で収益が伸び、夫の収入を超えました(笑)

税金上の都合で、現段階では事業を分けた方がいいだろうということで、2017年から夫と私は事業を分けたということになります。

こうして、少しずつ生活にゆとりが出てきた今。
夫とは度々、「ネットでの仕事も面白いけど、田舎だからできるもっと面白い仕事ってないかな?」というのが話題になるように。

そんな矢先に我が家から車で10分圏内に、なんとも素敵なロッジ風空き家を発見!
最初は事務所にする?なんて話していましたが、ここを拠点に何か面白いことを始められないかと考えたんです。

思いついたのが「山奥カフェ」
山奥カフェ
集客しやすいかという視点で言えば、最悪の立地です。

正直、この町に住む人でもあまり出入りしないほどの山奥です。
でも、この山奥感が逆に面白い。
私達はそう考えました。

わざわざ行く?というほどの山奥。
(※車では行けます)

これを逆に付加価値にできないかなと考えたんです。

数ヶ月かけて夫メインで持ち主を探しました。
やっと出会えた持ち主さん(代理の方)は何とも優しい方で、土地500坪と築27年の木造家屋+納屋を250万円で譲ってくださると言ってくださいました。

ご本人様は実はご病気をされていて、直接お会いするのが難しい状態とのこと。
(これが後々問題になっていきます)

私達は小躍りするほど喜びました。

ここでどんなカフェを経営するのか。
どうやって集客するか。

今は新しい未来にタッチしたような気持ちです。

【続き】
水問題勃発!
青年後継人が必要とはいったいどういうこと~!